オスカー・ワイルドの
『The Picture of Dorian Gray』は
新潮文庫の福田恆存(つねあり)訳の
『ドリアン・グレイの肖像』を
長年に渡って読み返してて
1度、余りにもぼろぼろで買い直した時も
迷わず同じ新潮文庫版を購入した
最初に読んで非常に気に入って以来
他の訳者のなんて考えたコトがなかった
しかし『筑摩世界文学大系【91】近代小説集』にも
平井正穂訳のが入ってたので
2009年の映画『Dorian Gray』を観た後で
改めて読み返すのに
初めて違う訳で読んでみた
タイトルからして違って
こちらは『ドリアン・グレイの画像』
平井正穂は同じく筑摩世界文学大系で
デフォーの『ロビンソン・クルーソー』も訳してて
他にもミルトンやトマス・モア等
馴染み深い訳者ではあった
そして自分は馴染みが無かったりするが
福田も平井もシェイクスピアの訳を
多く手掛けてるコトを知ってはいるるる~
シェイクスピアと言えば
『ドリアン・グレイ~』の第7章で
こんな一説が唐突に出てきてた
ミランダを捜しに来て、キャリバンにめぐりあったような気持だった。
ミランダもキャリバンも
『ドリアン・グレイ~』の作中人物ではなくて
いきなりそんな2人を引き合いに出されても
初めて読んだ時はなんのこっちゃだったヽ(゚∀。)ノ
そもそもキャリバンは
序文にも登場してたのだが・・・
十九世紀におけるリアリズムにたいする嫌悪は、キャリバンが鏡に映った自分の顔を見るときの怒りと異なるところがない。
十九世紀におけるロマンティシズムにたいする嫌悪は、鏡に自分の顔が映っていないといって怒るキャリバンそのままである。
これらに対して
福田訳では訳注もなく
当時はググるコトもできなかったので
シェイクスピアに疎かった自分は
しばらく意味不明のままだった。(´д`;)ギャボ
それが『テンペスト(あらし)』の登場人物と知って
仕方なく(?)シェイクスピアを読んでみたのだ。(゚д゚lll)ギャボ
また、第8章にも
女優のシビルの描写にこんな表現が・・・
シビル・ヴェインは自分にとって、ありとあらゆるロマンスのヒロインだ、
ある晩にはデズデモーナだったとおもえば、つぎの夜にはオフィーリアであり、
ジュリエットとして死んだかと見れば、イモージェンとなって蘇る、とね
オフィーリアは『ハムレット』で
ジュリエットは『ロミオとジュリエット』
くらいは知ってたが・・・
デズデモーナは『オセロー』で
イモージェンは『シンベリン』だとは
シェイクスピアを片っ端から調べて
やっと判明したのだった
これらは常識の範疇なんだろうかね(゚ぺ;)ぬぬ