風に揺れる葦とは?(『新約聖書』より)

パスカルが『パンセ』で
人間を葦に譬えて
「考える葦」と見解を述べたのを
なんとなく知ってはいても
その意図は測りかねるだろうし
そもそもなぜ人を葦に譬えたのかって
不可思議に思ってる人は多いだろう

元ネタは『新約聖書』の記述だが
順を追って説明すると
まずイエス・キリスト(以下、イエス)が
処女懐胎によって母マリアから生まれたとされてて
ここまでは誰もが知るトコロの逸話だろう

しかしそれを告げに来た「受胎告知」の天使が
大天使ガブリエルであるというのは
常識でなく、教養レベルなのか・・・?
(かつて某局のテレビ番組『〇曜美術館』でさえ
ミカエルだとのたまっていたw)

イエスに洗礼を施したバプテスマ(洗礼者)のヨハネも
ガブリエルのお告げによって
高齢の母エリザベツに授かったのだった
(エリザベツは処女懐胎ではなかったろうがw)

ちなみにマリアとエリザベツはいとこ同士
(と、使徒ルカも述べてるるる~)

先に生まれたヨハネは
早くから荒野で修業をして
民衆に説法をしてる内に
預言者として認められるようになり
人々に洗礼を施してて
イエスもこのヨハネの洗礼を受けたワケで・・・

で、イエスの方は三十路を過ぎるまで家にいて
現代日本で言う引き籠りとかニートの類?

たまには父の仕事を手伝うコトもあったかもだが
父ヨセフは現役の大工だったとは言え
還暦を過ぎてたのだからして
フツーなら立派な後継者になってるだろうに
定職に付かず、結婚もせずに三十路過ぎってのは
この時代には珍しいのでは???

そんなイエスが突然、家を出て
ヨルダン川でヨハネの洗礼を受けて
荒野で修業をして神がかりになり
旅をしながら説法で弟子を集め
また各地で奇跡を起こしまくるるる~

そうこうしてる内に
ヨハネはヘロデ王に囚われてしまい
王の誕生日の祝宴の最中に斬首。(゚д゚lll)ギャボ

このヨハネが囚われてから斬首されるまでの間に
イエスの【風に揺れる葦】発言があった

牢の中のヨハネに話を戻すと
イエスが各地で起こした奇跡について
ヨハネは弟子たちから逐一報告を受けてたので
イエスが救世主であるかどうか
問い質すための遣いをやった

イエスはどんな奇跡を行ったか並べ立てて
まわりくどく肯定しておいてから
今度はイエスが聴衆に向かって問い質した

 あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。でなかったら、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。その人こそ
『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、
あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』
と書かれてるその人です。あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。
ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちでさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。
『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。
弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』
というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている。』とあなたがたは言うし、人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言うのです。だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。

この意味不明な箇所が多い台詞は
「マタイの福音書」第11章にあるのだが
かいつまんで解説すると
イエスは公衆の面前でヨハネの弟子たちに
ズバリ、救世主なのかどうか尋ねられて
そうです、と簡単には回答せずに
行った奇跡を一通り述べた後
ヨハネが既に人々に預言者と認知されてるからか
まずはヨハネをヨイショ?!

でも神の国の者ときたら
そんなヨハネよりも凄いと言い出し
更に自身こそ神の国より遣わされたからして
奇跡を行えた救世主なのだと
なんか三段論法的に認めさせてしまうw

細かい部分はさておき
イエスの発言の中で【風に揺れる葦】は
まるで葦が風によってあっちへこっちへたなびくように
意思を持たずに周囲に合わせてなびく人の
譬えに使われてると推察できよう

生物学的特徴としての弱さでなく
意志の弱さを表現してるのだが
一般大衆は群集の中に埋もれると
集団心理でまさに【風に揺れる葦】のように
なってしまうワケだな

また、この比喩を受けて
すぐ次は「王侯貴族のような人々」なので
預言者はこれらのどちらにも属さず
「別格の人間」であると
今度は消去法で認識させてしまうwww

でも実際には
後半で揶揄してるようなパリサイ人や律法の専門家こそが
本来の由緒正しいユダヤ教徒であり
以下のような見解を持ってた

ユダヤ人の祖であるアブラハムが
神ヤハウェと契約したから
ヤハウェは人類の中でユダヤ民族のみを救う

ところがイエスが唱えた新説では
預言者ヨハネの洗礼を受けた者こそが
ユダヤ人でなくとも神に救われる・・・だ。(´д`;)ギャボ

後世のヨーロピアンはここから更に発展させて
「信じる者は救われる」としたワケだ

いや、自分がこの時代のユダヤ人だったら
民族の信仰であるコトはもちろん
信仰に深く結びついてる戒律まで蔑ろにして
自身が救世主で、親類のヨハネは預言者だなんて
そりゃ眉唾にしか感じられんので
不届きなイエスを処刑するのに反対はしなかったろうね

但し
イエスが自分の大切な人に
奇跡を起こしてくれたとしたら
イエスを信じざるを得ナイ気もするるる~

自分もこの時代のユダヤの民ならば
【考える葦】ではなく
【風に揺れる葦】だっただろうか?