「人間は考える葦である」ってなんで「葦」なのか?

人間は考える葦である

この有名なフレーズはパスカルの『パンセ』断章347の一節で、元は以下の通り

L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature; mais c’est un roseau pensant.
人間は、自然のうちでもっとも脆い葦でしかない。しかし、それは考える葦である。

人間の比喩になぜ【葦】なのか?

しかも日本人ならば【葦】と言われて思い起こすのは、軒先にぶら下がってたりする簾なんかで、その繊維質は弱いドコロか強靭にさえ感じられるはずなので、「もっとも脆い」と形容されてるのにも違和感を感じるやも?

この章が釈然としなかったとしたら、むしろ常識的な日本人だろうて

「考える葦(ROSEAU PENSANT)」はバックグラウンドが違うと特定の語に齎されてる暗喩的な意味に齟齬が生じる好例だ

先に答えを言ってしまえば、パスカルは単に聖書に倣って人間を【葦】に譬えてるだけだ

というコトは、【葦】を人に譬えるって感性は旧約聖書成立以前のユダヤ人(※)由来だ
使用する地域や時代でヘブライ人やイスラエル人と呼称が変わるが同義

荒野に生い茂る葦は、その地に住まう民族にとっては「ありふれた」、それでいて唯一の植物で、その群生の様が群衆に見立てられ、しかも神目線で見下されて【葦】とされてた

キリスト教信者ではなかったが聖書が愛読書だったので、「傷ついた葦」とか「風に揺れる葦」とか【葦】が人の形容に使われてるのを読んでて、民族性の違いから合点は行かずともそういうモノと納得はしてた

パスカルも神に対する敬虔な気持ちから、確かに人は弱い【葦】だと認めた上で、でも「考える葦」だとして「ただ弱いだけの存在」ではあるまいと緩くだが反証してるのを心憎く思ってた

そんなパスカルの人情とセンスを読み取らず、勝手に解釈してる日本人が多いのは、日本人にとっての聖書が教養の範疇ではなく、宗教の経典と認識されてるからだろう

ベストセラーなら何でも読むような人でも聖書を読破してなかったりするのは、時空を超えたベストセラーだと知らぬのだろうか?