輝ける青春(ドリアン・グレイのモデル)

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』は
冒頭に「序文」があるが
新潮社版では「画家の序文」もあり
この画家とは登場人物の一人で
画家であるバジルのモデルとなった男で
主人公のドリアン・グレイのモデルについて
以下のように述懐

わたしのモデルのひとりに、友人たちから「輝ける青春」と綽名されるほど、ひときわ目立つ美貌の青年がいた。

若さはそれ自体が魅力的で光彩を放つのだが
その光が最も眩しく感じられるのが
青春なる時期・・・
幼さから若さへ移行したばかりの頃であろう

わざわざ「輝ける」と付加するなど
青春の形容に対して不要なれど
類稀なる美貌の持ち主ともなれば
若さと美貌の相乗効果で
神々しく光り輝いて見えたのやもだ

波うつ金髪、生き生きと赤みがかった頬、健康ないたずらっぽさと、品の良いユーモアと、高邁な思想とにきらめく眼。
東風が吹きすさぶときでさえ、この世を愉快なものと思わせるような若者だった。
ひとの良さと陽気さが全身から発散して、かれがはいってくれば、陰鬱このうえない部屋もほんのりと明るみを帯び、輝くのだった。

まるで太陽神アポロンの如きだが
神であるアポロンは永遠の美青年であり
人間であるドリアンが美青年でいられるのは
通常であれば余りにも短い期間だ。(´д`;)ギャボ

その儚さに気付いた瞬間
自分はもうドリアンに憐憫の情を禁じえず
ワイルドも歎息まじりにこう言ったそう

あんなすばらしい人間が年をとってしまうとは、なんという傷ましいことだ

もちろん老いても
それなりに美しさを携えてる人はいるが
若い時と比べてみれば
歴然とした差があるはずだ

でもそれが老化という自然現象に従って
正しく年をとるってコトで
昨今の病的なアンチエイジング信奉でもなければ
自身も周囲も当然として受容できる範疇だ

しかし万人が認める圧倒的な美貌で
若さ故に更に光輝いて見えるようなレベルだと
若さを失して輝きも失ってしまった時
圧倒する程ではなくなるので
容貌が明らかに見劣りして見えるし
自身も周囲もその落差を受け容れ難いやもだ

ましてや
美貌に対してちやほやされて
それだけで有頂天になってるようだと
美貌が損なわれた「だけ」で
誰にも相手にされなくなるのは
確かに痛ましいだろうて

若い時に若さの特権以外に何を持ち得るかで
老いた時の顔が決まると思える自分も
美し過ぎる若者に対して
ワイルドのように憐憫の情を抱いてしまいがちだ

稀有な美貌に恵まれた者が
若さに輝いてる時は無敵なので
老いた自身の姿など想像しようもなく
実際に老いてしまって
輝きを失い、美貌も褪せてみて
もはや何も人の心を捉え得ナイ自らに直面した時の
失望と絶望ははかりしれナイだろうなどと
失礼ながら余計な心配をしてしまう。(´д`;)ギャボ

ワイルドの嘆きも
単純に「老いで美貌が損なわれる」って
耽美主義的な残念さだけでなく
それに気付けずにいる悲劇をこそ
輝きの中にも見取ってしまうトコロにあるのだが
もれなく端的にワイルドに賛同したのが
画家バジルのモデルとなった男だ

もし「ドリアン」がいつまでもいまのままでいて、代りに肖像画のほうが年をとり、萎びてゆくのだったら、どんなにすばらしいだろう。
そうなるものならなあ!

この会話から生まれたのが
「輝ける青春」に執り憑かれた若者の虚構の物語
『ドリアン・グレイの肖像』だった。(゚д゚lll)ギャボ

・・・というのは「画家の序文」
実在するバジルのモデルによって書かれてて
これを深読みするならばだがね