オスカー・ワイルド

新潮文庫 ドリアン・グレイの肖像

ドリアン・グレイの肖像〔オスカー・ワイルド / 福田恆存訳〕(SONY Reader Store)
    【画家の序文】
    【序文】
    【第1章】
    【第2章】
    【第3章】
    【第4章】
    【第5章】
    【第6章】
    【第7章】
    【第8章】
    【第9章】
    【第10章】
    【第11章】
    【第12章】
    【第13章】
    【第14章】
    【第15章】
    【第16章】
    【第17章】
    【第18章】
    【第19章】
    【第20章】
解説

ドリアン・グレイの肖像
耽美主義作家が出現するまでの近代文学の時代による傾倒の変遷
続・耽美主義作家が出現するまでの近代文学の時代による傾倒の変遷
『ドリアン・グレイの肖像』のあらすじと「老い」についての考察

映画『Dorian Gray(2009)』

オスカー・ワイルドが原作の
『ドリアン・グレイの肖像』の映画は
長い間、自分はどれも未見だった

せめてヘルムート・バーガーの
『The Secret of Dorian Gray』だけは
冥土の土産になんとしても観たいと
折を見ては[Dorian Gray movie]でググって
ソフトを探し続けてた



それがある時・・・2009年11月19日のコトだったが
[Dorian Gray(2009)]の項目が
トップに出てきて「2009」の数字に驚いた!

Dorian Gray(2009)

早速ページを開いてみると
ブルネットのドリアン・グレイに更に驚愕!!



ドリアンがブロンドでなくてど~するp(-_-+)q

しかしあえてブルネットの男を
ドリアンに仕立てたからには
どれほどその役者がドリアンをこなすのか
興味も湧いた

まあ確かに後から冷静になって考えてみれば
純朴な美青年ドリアンが
如何にして悪徳に染まっていくのかが主題なので
誰もが納得するような美貌の持ち主でなくてはならぬが
その真価は髪の色に左右されるモノでもなく・・・

ドリアンは金髪でなくてはいかんp(-_-+)q

そう思い込んでたのは
ヘルムート・バーガーの印象が強烈だったからだが
実際、バーガー版を観てなかった・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ



その後、ブルネットのドリアンが
ベン・バーンズなる俳優で
ナルニア国のカスピアン王子も演ってて
そこそこ人気もあると知って
『Dorian Gray(2009)』の日本公開を祈願してたが
祈り虚しく、未公開に終わった(-人-;)ナムアーメン



それがここへきて
『Dorian Gray(2009)』のDVDが日本で発売されて
これに合わせてなのか
バーガー版のも新たにDVD化されて
ついでに(?)ハード・ハットフィールド版DVDまで
もうドリアンDVD祭りのような異例の事態で
自分はとりあえずバーンズ版とバーガー版を購入

早速、観比べてみたが・・・

バーガー版は設定が現代になってるせいもあり
全体的に軽佻浮薄な印象が否めなくて
バーガーのデカダンの香り漂う容貌では
世慣れしてるように見えてしまい
当初は朴訥なはずのドリアンにしては
セクシー過ぎる嫌いもあり
最初から最期まで原作との違和感を拭いきれなかった

ドリアンは自ら好んで快楽を貪ってるのではなく
悪徳の指南役であるヘンリー卿に
そそのかされるままに享受しながら
陥れられてるのを愉しんでるのだと思われ

堕落してしまってる自身に酔いたいのだ。(´д`;)ギャボ

そんな破滅願望こそが
ワイルドの表現したかったデカダンシズムで
全く健全だった人間がそこに嵌ってく過程を描いてるので
読み手は一緒に引き込まれて戦慄を覚えるのだし
映画化されても観る者が息を呑んで追うのは
その部分なはず・・・



だからバーガーがのっけから
人を食ったような顔で登場してしまっては
皆、いきなりドン引きで構えてしまって
ドリアンが堕ちてく過程を愉しめず

バーガーがしたり顔で快楽を貪りながら
それ自体を楽しんでる感がありありで
しかもまるで罪悪感がナイように見えてしまうと
皮肉屋のヘンリー郷は登場する意味がなかろうて。(゚д゚lll)ギャボ

自分はバーガーのファンだが
原作を重視してるので
どうにもバーガー版はいただけナイ

但し、バーガーの
そして『ドリアン・グレイの肖像』の
コレクターとしては買って損はなかったし
むしろお得だった♪

しかし★をつけて評価するなら
バーガー版は★★★だ
これはバーガーファンなので
どうしても贔屓目に見てしまうのと
その稀に見る美しさに「免じて」なので
本来なら★★
はっきり言って駄作だ・・・バタリ ゙〓■●゙



映画としての完成度の高さも
原作への忠実度(監督の原作の理解度)も
バーンズ版の方が圧倒的に上回ってたが
1点、だが総てをダメにしてたのは
ラスト近くのホラー入り過ぎな部分だ

あとちょっとで終わりってトコロまで
耽美な世界観を押し出してたのに
なんでいきなりB級ホラー?!
まあでもそれを差し引いたとしても
★で評価するなら★★★★★だ

衣装、家具・調度、美術品はもちろん
何気ナイ小道具まで細部の作りが行き届いてて
基本的に美的である以上に
登場人物の趣味が反映されてて隙がなく
それは要するにワイルドの設定に沿ってるってコトだ

特にヘンリー卿にコリン・ファースってのは
最初はミス・キャストだと思ってたのだ
ぶっちゃけ、ダサイ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ



ところが観てる内に
なるほどヘンリー卿だと納得したのは
よく考えたら女にモテるようなルックスでは
いちいち女に甘やかされてしまうので
あそこまで世の中を拗ねて見れるほどにはならナイワケで・・・

そもそも原作においても最も魅力的な人物は
素直で美貌のドリアンではなく
美意識の高い皮肉屋のヘンリー卿なのだからして(^^

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『ドリアン・グレイの肖像』とシェイクスピア

オスカー・ワイルドの
『The Picture of Dorian Gray』は
新潮文庫の福田恆存(つねあり)訳の
『ドリアン・グレイの肖像』を
長年に渡って読み返してて
1度、余りにもぼろぼろで買い直した時も
迷わず同じ新潮文庫版を購入した

最初に読んで非常に気に入って以来
他の訳者のなんて考えたコトがなかった



しかし『筑摩世界文学大系【91】近代小説集』にも
平井正穂訳のが入ってたので
2009年の映画『Dorian Gray』を観た後で
改めて読み返すのに
初めて違う訳で読んでみた

タイトルからして違って
こちらは『ドリアン・グレイの画像』

平井正穂は同じく筑摩世界文学大系で
デフォーの『ロビンソン・クルーソー』も訳してて
他にもミルトンやトマス・モア等
馴染み深い訳者ではあった



そして自分は馴染みが無かったりするが
福田も平井もシェイクスピアの訳を
多く手掛けてるコトを知ってはいるるる~

シェイクスピアと言えば
『ドリアン・グレイ~』の第7章で
こんな一説が唐突に出てきてた

ミランダを捜しに来て、キャリバンにめぐりあったような気持だった。


ミランダもキャリバンも
『ドリアン・グレイ~』の作中人物ではなくて
いきなりそんな2人を引き合いに出されても
初めて読んだ時はなんのこっちゃだったヽ(゚∀。)ノ

そもそもキャリバンは
序文にも登場してたのだが・・・

十九世紀におけるリアリズムにたいする嫌悪は、キャリバンが鏡に映った自分の顔を見るときの怒りと異なるところがない。
十九世紀におけるロマンティシズムにたいする嫌悪は、鏡に自分の顔が映っていないといって怒るキャリバンそのままである。


これらに対して
福田訳では訳注もなく
当時はググるコトもできなかったので
シェイクスピアに疎かった自分は
しばらく意味不明のままだった。(´д`;)ギャボ

それが『テンペスト(あらし)』の登場人物と知って
仕方なく(?)シェイクスピアを読んでみたのだ。(゚д゚lll)ギャボ



また、第8章にも
女優のシビルの描写にこんな表現が・・・

シビル・ヴェインは自分にとって、ありとあらゆるロマンスのヒロインだ、
ある晩にはデズデモーナだったとおもえば、つぎの夜にはオフィーリアであり、
ジュリエットとして死んだかと見れば、イモージェンとなって蘇る、とね


オフィーリアは『ハムレット』で
ジュリエットは『ロミオとジュリエット』
くらいは知ってたが・・・



デズデモーナは『オセロー』で
イモージェンは『シンベリン』だとは
シェイクスピアを片っ端から調べて
やっと判明したのだった



これらは常識の範疇なんだろうかね(゚ぺ;)ぬぬ

ドリアン・グレイの「画像」

オスカー・ワイルドの
『The Picture of Dorian Gray』は
慣れ親しんでた福田恆存(つねあり)訳以外でも
タイトルは『ドリアン・グレイの肖像』が一般的だが
筑摩世界文学大系【91】近代小説集の平井正穂訳や
岩波文庫でも西村孝次訳だと
『ドリアン・グレイの画像』だった



「picture」の訳として
「画像」は全然間違いではナイのだが
現代では「画像」とすると
コンピュータ上の「画像」ファイルが思い浮かび
ドリアン・グレイが描かれた肖像画という
本来の意味がまるで思い起こせず・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

もちろん平井や西村が訳した頃には
コンピュータは無かったのだが
それにしたって「画像」では
どうもピンとこナイ気がするるる~



「肖像」としてるのが実に巧妙だと思うのは
『ドリアン・グレイの肖像画』とまでしてしまうと
今度ははっきりしなくて意味を取り違え易い

ドリアンが描いた誰かの肖像画なのか
ドリアンの所有してる肖像画のコレクションなのか
ドリアンにとって特別思い入れのある誰かの肖像画なのか
とか、いろいろ詮索の余地があるのだよ

まあ自分のように英語の覚束ぬ人間が
判断すべきではナイかもだが
タイトルともなるとどうにも気になってしまう!

そして訳に頼らなければ読めナイからこそ
訳に対して望むのは
的確な訳であるかどうか以上に
訳注がより細やかで親切であるコトだが
その点で平井訳は優れてた!!



「序文」にあるキャリバンについても
訳注に以下のようにあった

シェイクスピアの『あらし』に出る醜い半獣人


読み始める前の時点でそうと判明してれば
シェイクスピアを先に読んでから
『ドリアン・グレイ~』を読み進めれば
第7章で再びキャリバンが出てきた時
「なるほど」と思えたはずだが
英文学に疎かった自分は
読み終わってもずっと謎を抱えてたw

また平井訳では第7章の本文中にまで
次のような親切な訳注もあった

ミランダ(シェイクスピア作『あらし』の女主人公で可憐な娘)を探しているのにキャリバン(『あらし』に出てくる醜悪な怪物)にぶっつかったような感じだった。


しかし福田訳には
これらの訳注は一切無かったのだ(;つД`)

恐らく福田にとっては
シェイクスピア劇の登場人物は常識なのだろうて



訳注だけから言えば
平井訳は初心者に向いてるかと^^

それにしても『ドリアン・グレイ~』は
多くの翻訳があって
あちこちの出版社から出てるが
岩波だけでも2つの訳があったりするって
自分が思ってた以上に
日本人には人気あるのだろうか?!

ドリアン・グレイの「画家の序文」について

オスカー・ワイルドの
『The Picture of Dorian Gray』は
自分はこれまで新潮社版の
『ドリアン・グレイの肖像』しか読んでおらず
その冒頭にある「画家の序文」は
ワイルドが小説の一部として書いたのだと
信じて疑わなかった



ところが筑摩世界文学大系【91】近代小説集
『ドリアン・グレイの画像』を読んでみたら
「画家の序文」が無かったのだ。(゚д゚lll)ギャボ

慌てて本屋に駆け込んで
光文社版(仁木めぐみ訳)をチェックしたが
これにも無かったので
もしかすると無いのがフツーなのか?!



まず「画家の序文」がどういうモノかを
簡単に説明しよう

登場人物の画家バジルには
モデルとなった実在の男がいて
仮に「実在のバジル」と呼ぶとすると
「実在のバジル」は自身が
ワイルドの小説の登場人物のモデルになったとは
まるで知らずにいた

それがある日
『ドリアン・グレイ~』を読んでみたら
「ワイルドとのふとしたやりとりから生まれた物語のようだ」
などと回想するのだ

「画家の序文」はそうして
「実在のバジル」が書いてるように見せかけて
実際はワイルド自身が書いてて
まあこの物語に信憑性を与えるための演出?

しかしよく考えてみれば(いや、よく考えなくても)
これが演出なはずはなかった

何年か過ぎたある日のこと、ふとした機会でこの本がわたしの手にはいった。


つまり「実在のバジル」が
初版を入手してたと仮定した場合
そこに既に「画家の序文」が入ってたら
矛盾してしまうヽ(゚∀。)ノ

そんな間抜けなパラドックスを
ワイルドがわざわざ演出するだろうか???



「画家の序文」は少なくとも
初版出版時(1891年)にはなくて
「実在のバジル」がそうと気付いてから
以降に付け加えられたとすれば
いつ、どういういきさつで附されたのかの
仔細が一切、不明なのが腑に落ちナイ

いつ、を推測すれば

ワイルドはこのテーマを永いあいだ暖めていたにちがいない。


ともあるので
「実在のバジル」は「ちがいない」と確信しつつも
それをワイルド自身に確認をとっておらず
ワイルドの死後(1900年以降)か?

あるいは生きてたとしても
獄中にあった(1895年~1897年)間で
「実在のバジル」は「画家の序文」について
当のワイルドでなく
例えば出版社に問い合わせたりしたのか?



とにかく「実在のバジル」は
自身がモデルとなってるコトを
ワイルドから知らされてなかったのだから
本を手にした「ある日」以降にはもちろんだが
恐らく「ある日」までも
ワイルドとは永らく会ってなかったはず

「実在のバジル」が本トに実在してて
出版社がそうと知って
勝手に「画家の序文」を附けたとすれば
ワイルドが投獄されて以降だろうて

そしてどういういきさつかは
「ある日」以降に「実在のバジル」が
自らすすんでなのか、周囲に乗せられたのか
出版社から「画家の序文」の執筆を
依頼されて書いたと思われ



だとしたら「画家の序文」の存在は
ワイルドの知るトコロではなく
もしかすると意に反してるかもしれず。(´д`;)ギャボ

上記の仮定が正しければ
新潮社以外で「画家の序文」が省かれてるのは
いわゆるネタバレ的要素も含まれてるので
出版社の方針としてか
わざと省いてるってコトになるるる~

しかし真相は不明だ><

輝ける青春(ドリアン・グレイのモデル)

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』は
冒頭に「序文」があるが
新潮社版では「画家の序文」もあり
この画家とは登場人物の一人で
画家であるバジルのモデルとなった男で
主人公のドリアン・グレイのモデルについて
以下のように述懐

わたしのモデルのひとりに、友人たちから「輝ける青春」と綽名されるほど、ひときわ目立つ美貌の青年がいた。


若さはそれ自体が魅力的で光彩を放つのだが
その光が最も眩しく感じられるのが
青春なる時期・・・
幼さから若さへ移行したばかりの頃であろう



わざわざ「輝ける」と付加するなど
青春の形容に対して不要なれど
類稀なる美貌の持ち主ともなれば
若さと美貌の相乗効果で
神々しく光り輝いて見えたのやもだ

波うつ金髪、生き生きと赤みがかった頬、健康ないたずらっぽさと、品の良いユーモアと、高邁な思想とにきらめく眼。
東風が吹きすさぶときでさえ、この世を愉快なものと思わせるような若者だった。
ひとの良さと陽気さが全身から発散して、かれがはいってくれば、陰鬱このうえない部屋もほんのりと明るみを帯び、輝くのだった。


まるで太陽神アポロンの如きだが
神であるアポロンは永遠の美青年であり
人間であるドリアンが美青年でいられるのは
通常であれば余りにも短い期間だ。(´д`;)ギャボ



その儚さに気付いた瞬間
自分はもうドリアンに憐憫の情を禁じえず
ワイルドも歎息まじりにこう言ったそう

あんなすばらしい人間が年をとってしまうとは、なんという傷ましいことだ


もちろん老いても
それなりに美しさを携えてる人はいるが
若い時と比べてみれば
歴然とした差があるはずだ

でもそれが老化という自然現象に従って
正しく年をとるってコトで
昨今の病的なアンチエイジング信奉でもなければ
自身も周囲も当然として受容できる範疇だ

しかし万人が認める圧倒的な美貌で
若さ故に更に光輝いて見えるようなレベルだと
若さを失して輝きも失ってしまった時
圧倒する程ではなくなるので
容貌が明らかに見劣りして見えるし
自身も周囲もその落差を受け容れ難いやもだ

ましてや
美貌に対してちやほやされて
それだけで有頂天になってるようだと
美貌が損なわれた「だけ」で
誰にも相手にされなくなるのは
確かに痛ましいだろうて

若い時に若さの特権以外に何を持ち得るかで
老いた時の顔が決まると思える自分も
美し過ぎる若者に対して
ワイルドのように憐憫の情を抱いてしまいがちだ



稀有な美貌に恵まれた者が
若さに輝いてる時は無敵なので
老いた自身の姿など想像しようもなく
実際に老いてしまって
輝きを失い、美貌も褪せてみて
もはや何も人の心を捉え得ナイ自らに直面した時の
失望と絶望ははかりしれナイだろうなどと
失礼ながら余計な心配をしてしまう。(´д`;)ギャボ

ワイルドの嘆きも
単純に「老いで美貌が損なわれる」って
耽美主義的な残念さだけでなく
それに気付けずにいる悲劇をこそ
輝きの中にも見取ってしまうトコロにあるのだが
もれなく端的にワイルドに賛同したのが
画家バジルのモデルとなった男だ

もし「ドリアン」がいつまでもいまのままでいて、代りに肖像画のほうが年をとり、萎びてゆくのだったら、どんなにすばらしいだろう。
そうなるものならなあ!


この会話から生まれたのが
「輝ける青春」に執り憑かれた若者の虚構の物語
『ドリアン・グレイの肖像』だった。(゚д゚lll)ギャボ

・・・というのは「画家の序文」
実在するバジルのモデルによって書かれてて
これを深読みするならばだがね

ドリアン・グレイの「序文」:ワイルドの芸術論

『ドリアン・グレイの肖像』の「序文」には
著者であるオスカー・ワイルドの
芸術論が集約されてて・・・

芸術家とは、美なるものの創造者である。


と、冒頭に芸術家の定義があり・・・

すべて芸術はまったく無用である。


と、切り捨ててもいるのだったw



総ての美しいモノの中で
人間が創ったモノが芸術なのだが
本来、人の手による美は必要のナイモノだ

換言すれば
自然発生した美というのは
必ず生命の営みに有用であるはずだ

そして無用な美であるトコロの
芸術の存在意義について
だからこそ善か悪かなどと
道徳的に判断すべきモノではなく
ましてやまるで解しもせずに
有用性を謳うなんてのはナンセンスで
そういう的を得ナイ芸術の批評は
それこそ有用ではナイばかりか有害だそう



そんなコトが述べられてる中で
譬えに使われてるのが
見た目も行為も醜悪なキャリバンで
シェイクスピアの『テンペスト(あらし)』において
脇役ながら主要なキャラだ

十九世紀におけるリアリズムにたいする嫌悪は、キャリバンが鏡に映った自分の顔を見るときの怒りと異なるところがない。
十九世紀におけるロマンティシズムにたいする嫌悪は、鏡に自分の顔が映っていないといって怒るキャリバンそのままである。


前者はリアリズムの写実表現に対して
「事実のままでしかナイ」とか
後者はロマンティシズムの夢物語に対して
「現実的ではナイ」とか
的外れな批判を掲げる輩の滑稽さを
嘲笑してるのだな^^;

美とは対極の象徴的存在である自身に
気付かずに、あるいは理解せずに
鏡(に映ってる像)を批判するなんて
まるでキャリバンのような愚かさだとね><



ところで19世紀のリアリズム文学と言えば
フローベールの『ボヴァリー夫人』が
真っ先に頭に浮かぶ

この作品は発表の翌年に告訴されても
最終的には裁判に勝ち
また裁判沙汰=話題になったお蔭(?)で
フランス中がこの本を貪り読むに至った問題作だ

どの辺が問題だったのかは
『ベランジェという詩人がいた』より・・・



起訴事実の部分を以下に引用

公衆及び宗教の道徳並びに良俗侮辱罪


『ボヴァリー夫人』の主人公のエマは
良く言えば夢見がちな女性だが
夢に溺れて不道徳にひた走るタイプ

不倫するわ
夫に内緒で散財するわ
行き詰まったら自殺するわ

先に引用した罪に問われてるのは
実はこの架空の女性エマであり
エマの代わりに
彼女を創造したフローベール(と出版社)が
法廷に引きずり出されたのだったヽ(゚∀。)ノ



似たような裁判はボードレールにもあり
こちらはあろうコトか罪が認められて
ボードレールは罰金を課され
問題とされる部分(禁断詩篇)は
カットされた

ワイルドに話を戻すと
彼の場合、作品は罪に問われなかったが
自身の男娼の罪で服役した・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

小説『ドリアン・グレイの肖像』にみる詩的表現

オスカー・ワイルドの小説
『ドリアン・グレイの肖像』の出だしは
福田恆存(つねあり)訳では次のような一節からだ

 アトリエの中には薔薇のゆたかな香りが満ち溢れ、かすかな夏の風が庭の木立を吹きぬけて、開けはなしの戸口から、ライラックの淀んだ匂いや、ピンク色に咲き誇るさんざしのひとしお細やかな香りを運んでくる。


初めてこの出だしを読んだ時
文脈からその情景を思い起こしてたら
どう考えても矛盾してるとしか思えなかったw



美に対する直観が鈍いと
ワイルドに嗤笑されそうだが
科学的に、理性的に、現実的に、考えてみれば
薔薇のきつい匂いが充満した部屋では
風にのって遠くから運ばれてきた花の香りなど
感じ取れるはずもなく。(´д`;)ギャボ

そして少し先に読み進むと
これがまたよくわからぬ譬えだが・・・

時おり、おもてを飛ぶ小鳥の夢のような影が、大きな窓にかかった長い山繭織りのカーテンをよぎり、その一瞬、まさに日本的な気分をつくり出す。すると、かれの脳裡には、固定した芸術媒体を通じて身軽さと動きの感じを伝えようとするあの東京の画家たちの硬玉のように青白い顔が浮んでくる。


え~と・・・。(゚д゚lll)ギャボ

このワイルドの日本観には
未だに理解に苦しむが
情景をはっきりと思い描こうとするからこそ
さっぱり掴めなくなるのかね?

単に異国情緒の雰囲気が漂ってる
しかもそんな気がするってくらいの表現かね?

どうもワイルドの小説は
表現が無駄に詩的過ぎるようだ><

確かにこういう表現は
ボードレールやランボーの詩には多用されてて
はっきり思い浮かべようとするほどに
情景が重なり合ってしまい
輪郭が掴めなくなってしまうのだが
まあ詩なら抽象的であってもよかろうて^^;



尤も詩の場合には
情景の正確さより語句の美しさ自体を愉しむので
矛盾が生じてもそこに捉われずスルーだが
小説中ではどうも引っかかるるる~

ボードレールはこの表現方法についても
自ら詩作してるのだが
その詩のタイトル『コレスポンダンス』は
鈴木信太郎に【交感】、堀口大學に【呼應】と訳されてて
五感によって概念を直観的に感じさせる手法だ

万人に共有される秩序だった理解ではなく
特異な美感を持つ者にしか感じられぬ
「悟り」・・・とでも言おうか?



そのモノの本質的な美を感じ取らせるために
研ぎ澄まされた美意識から
共鳴を呼び覚ます語句を鏤めるのだが
その語句には自然の色や香り、花や鳥の名など
これは残念ながら幼少期の内に
その美しさに胸を打たれた記憶がなければ
どうにも持ち得るコトができナイ感覚だったりもする

まるで解せぬ輩に対して
門前払いをしたがってるかのようだが
小説でそこまでやらずともよかろう
いや、さすがワイルドなのか?!