筑摩世界文学大系

筑摩世界文学大系【13/19】デカルト パスカル

方法序説〔デカルト / 野田又夫訳〕
[第1部]
[第2部]
[第3部]
[第4部]
[第5部]
[第6部]
省察〔デカルト / 桝田啓三郎訳〕
献辞「いとも賢明にして著名な聖なるパリ神学部の学部長ならびに博士諸氏に」
読者への序言
以下の六つの省察の概要
≪省察1≫疑われうるものについて
≪省察2≫人間精神の本性について。精神は身体よりも容易に知られるということ
≪省察3≫神について。神は存在するということ
≪省察4≫真と偽とについて
≪省察5≫物質的な事物の本質について。そして再び、神は存在するということについて
≪省察6≫物質的な事物の存在ならびに精神と身体との実在的な区別について
凡例
訳注
情念論〔デカルト / 伊吹武彦訳〕
[第1部]情念を概説してたまたま人性全般に及ぶ
[第2部]情念の数と順位、ならびに基本的六情念の説明
[第3部特殊情念について
パンセ〔パスカル / 松浪信三郎訳〕
[第1編]精神および文体についてのパンセ[1]~[59]
[第2編]神を持たない人間の悲惨[60]~[183]
[第3編]賭の必然性について[184]~[241]
[第4編]信仰の手段について[242]~[290]
[第5編]正義、および現実の理由[291]~[338]
[第6編]哲学者[339]~[424]
[第7編]道徳と教理[425]~[555]
[第8編]キリスト教の基礎[556]~[588]
[第9編]永続性[589]~[642]
[第10編]象徴[643]~[692]
[第11編]予言者[693]~[736]
[第12編]イエス・キリストについての証拠[737]~[802]
[第13編]奇蹟[803]~[856]
[第14編]補遺、論争的断片[857]~[924]
プロヴァンシアル〔パスカル / 中村雄二郎訳〕
  • 目下ソルボンヌで論議されている事柄について、ある田舎の住人(プロヴァンシャル)に、友だちの一人が書き送った第一の手紙
  • ある田舎の住人に友だちの一人が書き送った第五の手紙
  • ある田舎の住人に友だちの一人が書き送った第七の手紙
  • 田舎の友への手紙の著者がイエズス会の神父がたにあてて書いた第十一の手紙
  • 田舎の友への手紙の著者がイエズス会の神父がたにあてて書いた第十二の手紙
  • 田舎の友への手紙の著者がイエズス会のアンナ神父にあてて書いた第十八の手紙
  • アンナ神父にあてられた第十九の手紙・断章
デカルト 思考の師〔G.デュアメル / 土居寛之訳〕
パスカルの『パンセ』〔T.S.エリオット / 青木雄造訳〕
解説〔野田又夫〕
年譜

「人間は考える葦である」ってなんで「葦」なのか?

人間は考える葦である



この有名なフレーズは
パスカルの『パンセ』断章347の一節で
元は以下の通り

L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature; mais c’est un roseau pensant.
人間は、自然のうちでもっとも脆い葦でしかない。しかし、それは考える葦である。


人間の比喩になぜ【葦】なのか?

しかも日本人ならば
【葦】と言われて思い起こすのは
軒先にぶら下がってたりする簾なんかで
その繊維質は弱いドコロか
強靭にさえ感じられるはずなので
「もっとも脆い」と形容されてるのにも
違和感を感じるやも?

この章が釈然としなかったとしたら
むしろ常識的な日本人だろうて



「考える葦(ROSEAU PENSANT)」は
バックグラウンドが違うと
特定の語に齎されてる暗喩的な意味に
齟齬が生じる好例だ

先に答えを言ってしまえば
パスカルは単に聖書に倣って
人間を【葦】に譬えてるだけだ



というコトは
【葦】を人に譬えるって感性は
旧約聖書成立以前のユダヤ人((使用する地域や時代でヘブライ人やイスラエル人と呼称が変わるが同義))由来だ

荒野に生い茂る葦は
その地に住まう民族にとっては
ありふれた、それでいて唯一の植物で
その群生の様が群衆に見立てられ
しかも神目線で見下されて【葦】とされてた



キリスト教信者ではなかったが
聖書が愛読書だったので
「傷ついた葦」とか「風に揺れる葦」とか
【葦】が人の形容に使われてるのを読んでて
民族性の違いから合点は行かずとも
そういうモノと納得はしてた

パスカルも神に対する敬虔な気持ちから
確かに人は弱い【葦】だと認めた上で
でも「考える葦」だとして
ただ弱いだけの存在ではあるまいと
緩くだが反証してるのを
心憎く思ってた



そんなパスカルの人情とセンスを読み取らず
勝手に解釈してる日本人が多いのは
日本人にとっての聖書が
教養の範疇ではなく
宗教の経典と認識されてるからだろう

ベストセラーなら何でも読むような人でも
聖書を読破してなかったりするのは
時空を超えたベストセラーだと
知らぬのだろうか?

風に揺れる葦とは?(『新約聖書』より)

パスカルが『パンセ』で
人間を葦に譬えて
「考える葦」と見解を述べたのを
なんとなく知ってはいても
その意図は測りかねるだろうし
そもそもなぜ人を葦に譬えたのかって
不可思議に思ってる人は多いだろう



元ネタは『新約聖書』の記述だが
順を追って説明すると
まずイエス・キリスト(以下、イエス)が
処女懐胎によって母マリアから生まれたとされてて
ここまでは誰もが知るトコロの逸話だろう

しかしそれを告げに来た「受胎告知」の天使が
大天使ガブリエルであるというのは
常識でなく、教養レベルなのか・・・?
(かつて某局のテレビ番組『〇曜美術館』でさえ
ミカエルだとのたまっていたw)



イエスに洗礼を施したバプテスマ(洗礼者)のヨハネも
ガブリエルのお告げによって
高齢の母エリザベツに授かったのだった
(エリザベツは処女懐胎ではなかったろうがw)

ちなみにマリアとエリザベツはいとこ同士
(と、使徒ルカも述べてるるる~)

先に生まれたヨハネは
早くから荒野で修業をして
民衆に説法をしてる内に
預言者として認められるようになり
人々に洗礼を施してて
イエスもこのヨハネの洗礼を受けたワケで・・・



で、イエスの方は三十路を過ぎるまで家にいて
現代日本で言う引き籠りとかニートの類?

たまには父の仕事を手伝うコトもあったかもだが
父ヨセフは現役の大工だったとは言え
還暦を過ぎてたのだからして
フツーなら立派な後継者になってるだろうに
定職に付かず、結婚もせずに三十路過ぎってのは
この時代には珍しいのでは???

そんなイエスが突然、家を出て
ヨルダン川でヨハネの洗礼を受けて
荒野で修業をして神がかりになり
旅をしながら説法で弟子を集め
また各地で奇跡を起こしまくるるる~



そうこうしてる内に
ヨハネはヘロデ王に囚われてしまい
王の誕生日の祝宴の最中に斬首。(゚д゚lll)ギャボ

このヨハネが囚われてから斬首されるまでの間に
イエスの【風に揺れる葦】発言があった

牢の中のヨハネに話を戻すと
イエスが各地で起こした奇跡について
ヨハネは弟子たちから逐一報告を受けてたので
イエスが救世主であるかどうか
問い質すための遣いをやった

イエスはどんな奇跡を行ったか並べ立てて
まわりくどく肯定しておいてから
今度はイエスが聴衆に向かって問い質した

 あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。でなかったら、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。その人こそ
『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、
あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』
と書かれてるその人です。あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。
ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちでさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。
『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。
弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』
というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている。』とあなたがたは言うし、人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言うのです。だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。


この意味不明な箇所が多い台詞は
「マタイの福音書」第11章にあるのだが
かいつまんで解説すると
イエスは公衆の面前でヨハネの弟子たちに
ズバリ、救世主なのかどうか尋ねられて
そうです、と簡単には回答せずに
行った奇跡を一通り述べた後
ヨハネが既に人々に預言者と認知されてるからか
まずはヨハネをヨイショ?!



でも神の国の者ときたら
そんなヨハネよりも凄いと言い出し
更に自身こそ神の国より遣わされたからして
奇跡を行えた救世主なのだと
なんか三段論法的に認めさせてしまうw

細かい部分はさておき
イエスの発言の中で【風に揺れる葦】は
まるで葦が風によってあっちへこっちへたなびくように
意思を持たずに周囲に合わせてなびく人の
譬えに使われてると推察できよう

生物学的特徴としての弱さでなく
意志の弱さを表現してるのだが
一般大衆は群集の中に埋もれると
集団心理でまさに【風に揺れる葦】のように
なってしまうワケだな

また、この比喩を受けて
すぐ次は「王侯貴族のような人々」なので
預言者はこれらのどちらにも属さず
「別格の人間」であると
今度は消去法で認識させてしまうwww



でも実際には
後半で揶揄してるようなパリサイ人や律法の専門家こそが
本来の由緒正しいユダヤ教徒であり
以下のような見解を持ってた

ユダヤ人の祖であるアブラハムが
神ヤハウェと契約したから
ヤハウェは人類の中でユダヤ民族のみを救う

ところがイエスが唱えた新説では
預言者ヨハネの洗礼を受けた者こそが
ユダヤ人でなくとも神に救われる・・・だ。(´д`;)ギャボ

後世のヨーロピアンはここから更に発展させて
「信じる者は救われる」としたワケだ



いや、自分がこの時代のユダヤ人だったら
民族の信仰であるコトはもちろん
信仰に深く結びついてる戒律まで蔑ろにして
自身が救世主で、親類のヨハネは預言者だなんて
そりゃ眉唾にしか感じられんので
不届きなイエスを処刑するのに反対はしなかったろうね

但し
イエスが自分の大切な人に
奇跡を起こしてくれたとしたら
イエスを信じざるを得ナイ気もするるる~

自分もこの時代のユダヤの民ならば
【考える葦】ではなく
【風に揺れる葦】だっただろうか?

風に揺れる葦



モーパッサンは『Maison Terrier(メゾン テリエ)』で
お祝いに集まってきた人々を

そよ風にゆらぐ葦


と表現してて
原文のフランス語では次のようにあった

comme des roseaux sous la brise


comme:~のような
roseaux:葦
brise:弱い風(通常の風は vent で brise はそれより弱い風)

vent では喧噪の只中の群衆のようで
モーパッサンにしてみれば
お祝いにかけつけた人々の心情に相応しく
brise としたのではなかろうか?

河盛好蔵の訳が「そよ風」なのも美しい



これとは逆に
混雑した中で押し合いへし合いする群衆を

風に揺り動かされる芦(あし)のやうに揺られながら


と表現してるのは
トマス・ハーディの『Far From the Madding Crowd』で
上記の訳は昭和初期世界名作翻訳全集『遥かに狂乱の群を離れて』で
訳者は英文学者宮島新三郎だが
邦題は『遥か群衆を離れて』が一般的で
映像化作品の邦題もこれだった



原文の英語は未確認なれど
タイトルの『Far From the Madding Crowd』からして
ユダヤ人に言わせれば
「荒野の葦原より遠のいて」か?!

☆・・・☆・・・☆



頑丈な樫の木が何があってもびくともせずと自信満々で
鳥が留まったり風が吹いたりしただけでたわんでしまう葦を
冒頭では憐れんでるのだが
最期には暴風によって
葦はいつものようにたわんだだけだったが
樫は根こそぎ倒れてしまった

と、そんな話が
ラ・フォンテーヌの寓話の『樫と蘆(あし)』だが
これもパスカルの【考える葦】と発想が似てて
葦の弱さをわざわざ樫と比べてみて
でも実際には樫よりも強かったとしてるなんて
その手法の巧みさも比肩するね

ところでラ・フォンティーヌの寓話は
各社から出版されてるが
挿絵がギュスターヴ・ドレなので
自分はこれを購入した

☆・・・☆・・・☆

それにしても葦、蘆、芦、葭・・・と
葦の字は色々あるるる~