小説『ドリアン・グレイの肖像』にみる詩的表現

オスカー・ワイルドの小説
『ドリアン・グレイの肖像』の出だしは
福田恆存(つねあり)訳では次のような一節からだ

 アトリエの中には薔薇のゆたかな香りが満ち溢れ、かすかな夏の風が庭の木立を吹きぬけて、開けはなしの戸口から、ライラックの淀んだ匂いや、ピンク色に咲き誇るさんざしのひとしお細やかな香りを運んでくる。

初めてこの出だしを読んだ時
文脈からその情景を思い起こしてたら
どう考えても矛盾してるとしか思えなかったw

美に対する直観が鈍いと
ワイルドに嗤笑されそうだが
科学的に、理性的に、現実的に、考えてみれば
薔薇のきつい匂いが充満した部屋では
風にのって遠くから運ばれてきた花の香りなど
感じ取れるはずもなく。(´д`;)ギャボ

そして少し先に読み進むと
これがまたよくわからぬ譬えだが・・・

時おり、おもてを飛ぶ小鳥の夢のような影が、大きな窓にかかった長い山繭織りのカーテンをよぎり、その一瞬、まさに日本的な気分をつくり出す。すると、かれの脳裡には、固定した芸術媒体を通じて身軽さと動きの感じを伝えようとするあの東京の画家たちの硬玉のように青白い顔が浮んでくる。

え~と・・・。(゚д゚lll)ギャボ

このワイルドの日本観には
未だに理解に苦しむが
情景をはっきりと思い描こうとするからこそ
さっぱり掴めなくなるのかね?

単に異国情緒の雰囲気が漂ってる
しかもそんな気がするってくらいの表現かね?

どうもワイルドの小説は
表現が無駄に詩的過ぎるようだ><

確かにこういう表現は
ボードレールやランボーの詩には多用されてて
はっきり思い浮かべようとするほどに
情景が重なり合ってしまい
輪郭が掴めなくなってしまうのだが
まあ詩なら抽象的であってもよかろうて^^;

尤も詩の場合には
情景の正確さより語句の美しさ自体を愉しむので
矛盾が生じてもそこに捉われずスルーだが
小説中ではどうも引っかかるるる~

ボードレールはこの表現方法についても
自ら詩作してるのだが
その詩のタイトル『コレスポンダンス』は
鈴木信太郎に【交感】、堀口大學に【呼應】と訳されてて
五感によって概念を直観的に感じさせる手法だ

万人に共有される秩序だった理解ではなく
特異な美感を持つ者にしか感じられぬ
「悟り」・・・とでも言おうか?

そのモノの本質的な美を感じ取らせるために
研ぎ澄まされた美意識から
共鳴を呼び覚ます語句を鏤めるのだが
その語句には自然の色や香り、花や鳥の名など
これは残念ながら幼少期の内に
その美しさに胸を打たれた記憶がなければ
どうにも持ち得るコトができナイ感覚だったりもする

まるで解せぬ輩に対して
門前払いをしたがってるかのようだが
小説でそこまでやらずともよかろう
いや、さすがワイルドなのか?!